私が住んでいるのは、川崎区新川通というところです。
地名の元となっている「新川通り」は川崎駅前からまっすぐ海に向かっていますが、これは昔はその名の通り「新川」という川だったそうです。バス停などに「小土呂橋」「さつき橋」の地名も残っているので、私もそうだろうなあと予想していましたが、今井克樹さんの本で「新川」は農業用水だったことを知りました。
幸区に古川という地名があるので、「新川」に対する「古川」はそこのあたりを通っていた川なのかな、と思っていたら、ある古老から「いまの銀柳街を流れていた川だよ」と教えていただきました。たしかに「銀柳街は昔の川跡だったからいつも水が出るんだ」と聞いたことがあります。
話はいったん、3月議会の予算審査特別委員会の質問に移ります。
多摩川の治水に詳しい地域の先輩に「台風19号の時に、JRのガードの所からも出水したんだ。そこは堤防が低くなっている」と教わりました。役所に確認するとそこから水が出ていて、実際に堤防は40センチ程度低くなっているとのことでした。
さらに、国交省のウェブサイトにあるシミュレーションを見てみると、この低いガード部分で堤防が破れると、市役所前まで一気に浸水することになっています。
それもそのはず。このガード部分は昔の「古川」の川跡が現在の多摩川に合流している地点だったのです。だから川筋に沿って低くなっているし地盤も水が浸透しやすいのです。
質問準備の中で、JRガード部分は「水衝部対策が必要な地点」とされていることがわかりました。「水衝部」とは水の流れが急な部分のことで、放っておくと水流で地盤や護岸が崩されたりすることがあるので、水の勢いを弱めたりする対策が必要な部分のことです。
多摩川下流では、幸区の小向の川崎競馬の練習場のところではグッと東京側に湾曲していて、その先の河原町からJRガード部にかけては反対に川崎市側にふくらんでいます。
この川のカーブの外側では水流が強くなるので、いまのようにコンクリで護岸を固めていない時代には、湾曲した外側がどんどん削れていくことになり、大雨や台風の時には一気に外側を突き破って本流が外側に変わってしまうことになります。
ここでいつもの「治水地形分類図」(今昔マップon the webより)を見てみます。
幸区河原町から尻手駅、川崎区に入り堤根から銀柳街、京急川崎駅付近をとおり現在の本町ポンプ場へと昔の多摩川の「旧河道」が青い横線で示されています。多摩川の本流が現在の位置になったあとも残った川筋が「古川」と呼ばれていたのでしょう。
川崎区砂子や本町、幸区の幸町や南幸町など黄色い部分は自然堤防(微高地)と砂州で、川の流れで運ばれた土砂などが堆積して高くなった土地です。こういう微高地は水害が及ばないので古くから町が形成されました。神社やお寺はほとんどこの微高地にあるし、川崎宿も旧多摩川が運んでできた砂州につくられました。
考えてみれば「堤根」という地名は「堤防」のあるところを指していたのかもしれません。
大きく蛇行した川は、次の大雨の時には蛇行している根本の細くなった部分を「ショートカット」してまたつながり、いまの多摩川の流れになったのでしょう。
二ヶ領用水は現在の川崎区の地域まで流れて農業用水として使われ、「新川」は悪水路(農業の排水路)として使われたとのことです。
元々は『「新川」に対する「古川」って幸区の地名では?』と思っていたところから、古川が昔の多摩川であることを教わり、質問準備の中で川の湾曲部の外側が削れていくことを知り、あちこちで貯めた自分の中の「トリビア」みたいな知識が「ムダ知識」ではなく今後の水害を考えるヒントになってつながっていきました。
町の歴史を知る人がいて、その人に耳を傾けることは本当に大事と思います。
ふと思い出したけれど、自分が「川」に興味を持ったのは「脱ダム」のことを先日亡くなったC・W・ニコルさんのドキュメントTV番組をみたことや、大学の一般教養の「地理学」でかこさとしさんの「かわ」をテキストに学んだことがとても面白かったことが、ベースになっていました。
子どもや青年期に、純粋に「知れておもしろい」と思ったことを大事にして、貯めておくことはいずれ何かの役に立ったり、役に立たなくても人生を豊かにすることになるんだろうなあ。
今の休校のときにこそ、そんな体験をさせたいなあ、とおもいます。
とりとめもなくなったのでおわります。